- 流れに沿って歩く - 祇王井川



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全体概略図
索引:(用語をクリックすると説明箇所へジャンプします)   近江名所図会 野州川 三上山 水源地跡 史蹟祇王井川の碑   野洲小学校 生和神社 生和神社裏 東祇王井川 西祇王井川   地酒・祇王井 祇王小学校 義王村 祇王村 妓王・妓女の郷   家棟川 新家棟川 童子川 比叡山 妓王邸跡 妓王寺 北村季吟   平家終焉の地 妓王と祇王 朝鮮人街道 参考図書                         【1】「平家物語」巻第一に「祇王」の章がある。 平清盛に寵愛された祇王の生涯が語られている。その祇王は近江の国江部荘 (えべのしょう:現在の滋賀県野洲町の一部)の出身と言われている。清盛の 寵愛が深かったとき、水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで 江部荘に水路を引いてもらった。人々は大変喜び、この水路を祇王井と呼ぶよ うになったという。今から八百年余り前、承安三年(1173年)のこととさ れている。(このくだりは平家物語には記されていない。)  今も流れ続けている祇王井川に沿って歩いてみた。 版画−1:野洲川【2】祇王井が引かれた八百年前はどの ような風景だったのだろうか? 自動車も新幹線もなかったのはもちろん のこと、川や道の整備状況は想像を絶す るほどに遅れていたに違いない。 しかし、現在の土地を歩いて昔の面影を 偲ぶためには、昔の風景に想いを馳せて みることも大切であろう。  右の版画(近江名所図会)は、およそ 200年前の風景を描いたものである。 橋や護岸が整備されたのは明治時代以降 のことであり、江戸時代以前の数百年間 はあまり変化がなかったと考えてよいだ ろう。さしあたって、八百年前の野洲川 の風景はこの画に描かれているような状 態だった、と想定しておくことにする。  さらに想像を膨らませるならば、祇王  版画−1:野洲川          井の取水口は、この画の中央左側、橋の   (出所:近江名所図会)      付近だったのではないか、と思われるの                  である。 【3】祇王井川の水源地跡を示す碑があるという。先ずはこの碑から訪ねるこ とにした。祇王井川は野洲川から水を引いている。野洲川は滋賀県で一番大き な川である。野洲側に沿って大きな住宅街が細長く拡がっており、その一角は 七間場という住宅地である。水源地跡というからには住宅の外れの野洲側堤防 付近だろうと見当をつけた。七間場バス停の近くに車を停め、住宅地の中を歩 くことにした。歩き始めるとすぐ公園があり、その向かいの家で庭掃除をして いる主婦が眼に入った。若いきれいな人だったので声をかけてみた。「何の碑 か知りませんけど、自治会館の横に記念碑があります。」とのことだった。自 治会館の場所を尋ねると、急いで家の中から住宅地図を持ってきて拡げてくれ た。 写真−1:三上山  写真−2:祇王井川水源地跡の碑    写真−1:三上山            写真−2:祇王井川水源地跡の碑 【4】この住宅地は近江富士とも呼ばれる三上山に近い場所である。 一階建ての七間場自治会館の脇に水源地跡の記念碑が建っていた。そこは道ひ とつを隔てて野洲側の堤防が連なっている所である。堤防に上がってみると、 河川敷には大きな運動公園が広がっていた。堤防の整備が貧弱だった昔は、こ のあたりから祇王井の水が引かれたのであろう。現在は、ここから1キロ近く 上流(南)から引かれている。     【5】水源地跡の碑から700メートル程下ったところの道端に「史蹟妓王井 川」の碑が立っている。さらに2、300メートル先の神社近くには落ち着い た家並みが見られた。JR野洲駅に近い野洲小学校裏には、祇王の故事を示す 標識がごく最近作られた。このあたりまでは川幅は1メートル足らずで、ほぼ 野洲川から引いた水だけが流れ、水は澄んでいる。この少し先からは農業用水 などが入り混じり、水量が多くなっている。 写真−3:史蹟の碑  写真−4:行事神社付近  写真−3:史蹟妓王井川の碑    写真−4:行事神社付近 写真−5:野洲小学校裏  写真−6:野洲小学校裏    写真−5:野洲小学校裏         写真−6:野洲小学校裏   写真−7:JRを越えた祇欧井川  VSPACE=【6】JR野洲駅を左に見て少し進むと、 JR琵琶湖線(東海道線)と交差する。 JR線路下を潜り抜けて琵琶湖側になっ た最初の風景が写真−7である。  ちなみに、私が雨露をしのいでいる 「うさぎ小屋」はここから徒歩2分位の ところにある。  写真−7:JRを越えた祇王井川  写真−8:生和神社  VSPACE=【7】ここから5分位歩くと生和神社 (いくわじんじゃ)の横に出る。 この神社には我が家の守り神が在し、私 は毎年除夜の鐘を聞き終わるや馳せ参じ て、不出来な子供たちの無事を祈願して いる。何度も足を運んでいる割には、こ の神社の横(向かって右手と裏)に祇王 井川が流れているということを今回の調 査まで知らなかった。  写真−8:生和神社 【8】祇王井川は生和神社裏の一角で、中の池川と祇王井川とに分岐している。 後述するように、分岐した二つの川は長方形を形作った後でまた合流して琵琶 湖に注いでいる。土地の人々は二つの川を、西祇王井川東祇王井川とも呼ん でいるようである。この神社の横から奥にかけて、遊歩道が整備されていた。 遊歩道も水路もコンクリートで固められていた。  「写真展を開くのだったら私の職場を使ってくれてもいいですよ」と声をか けてくれた人がいた。5月末の暑い日曜日の午後だった。その人は神社裏の木 陰で、石の台に座って缶ビールを飲んでいた。歳のころは50代半ばのお兄さ んである。近くの公的機関に勤めているという地元の人だった。神社の周りの 遊歩道はずっと前からあったそうだが、整備されたのはあまり前ではないよう だった。「ちょっと整備のし過ぎという感じがせんでもないんだがね...」 とそのお兄さんが笑った。  写真−9:生和神社の横  VSPACE=  写真−10:生和神社裏の分岐点  VSPACE=  写真−9:生和神社の横         写真−10:生和神社裏の分岐点     写真−11:生和神社の横  VSPACE= 【9】日を改めて、分岐点からまず祇王井川(東 祇王井川)に沿って歩いた。中の池川(西祇王井 川)にかなりの水量を分けた祇王井川は川幅が狭 く、家の軒下を縫うように伸びていた。ここから 先は何回も右に左にと直角に折れ曲がっていた。 その有様からは、先に家が建てられ、その後に家 並みに沿って水路が掘られたことが想像された。  写真−11:分岐点に近い東祇王井川   【10】家並みに遠慮している川が遂に途絶えたのか、と胸が高まった場所が あった。コンクリートで固められた水路が祇王井川と直交しており、祇王井川 の水がその水路に注がれていたのである。水路は川幅3メートル位あり、作ら れてから数年位しか経っていない感じだった。なんて無謀なことをするんだ、 と怒りがこみ上げてきたが、よく見ると、祇王井川からの注ぎ口の正面に水門 が付けられており、そこから先に祇王井川が続いていることが分かった。つま り、新しくできた水路の水と祇王井川の水とは直交しており、交じり合った水 の一部が祇王井川に流れ出ているのである。  その先の、土地が少し高くなっている場所では地下を流れていた。これが開 削当時の技術によるものかどうかは分からない。ちなみに、祇王井川は清盛が 一夜にして作らせたという伝説がある。800年前の技術としては、人海戦術 で多くの日数をかけ、溝を掘るだけで精一杯だったに違いない。もっとも、流 れ出る土砂によって川底が上げられた天井川が滋賀には多かったので、祇王井 川が掘られたときにトンネル工事が行われたことも想像できる。  写真−12:祇王井川と直交している水路  VSPACE=       写真−13:地下を潜り抜けてきた祇王井川  VSPACE= 写真−12:祇王井川と直交している水路 写真−13:地下を潜り抜けてきた祇王井川   写真−14:地酒「妓王井」  VSPACE= 【11】地下水路の出口(屋棟神社前) を確認して少し歩いた地点で、酒屋さん の看板が目に入った。提灯を下げた木造 の古いお店だった。「妓王井」というお 酒を売っているようである。提灯には、 お酒の名前の「妓王井」と、酒屋さんの 名前が書かれていた。  写真−14:地酒「妓王井」   【12】酒屋さんを過ぎて間もなく、祇王幼稚園、祇王小学校があった。この あたりは祇王と呼ばれている地区である。では、祇王の地名はいつ頃から使わ れているのだろうか?この稿を書き始めてそんな疑問を感じていたところ、図 書館で「祇王小学校百年誌」という本が目に入った。この本によれば、祇王小 学校は明治19年(1885年)設立、昭和61年(1986年)創立百周年 記念式典という長い歴史に支えられている。もっとも、最初から「祇王」の名 を冠していたわけではない。明治22年の町村制施行で、隣接する7村が合併 して義王村が生まれ、明治27年に祇王村と改称された由。なぜ「祇王」の名 が使われるようになったのかといえば、合併した村の中には妓王寺のある中北 村(現・野洲町中北)が含まれていたためであろう。  写真−15:祇王小学校  VSPACE= 【13】祇王小学校の校歌は「祇王井の 流れ..」という言葉で始まり、    ホームページ の壁紙には「妓王・妓女の郷」「季吟翁 の郷」(季吟翁については後述する)と いう言葉が並べられている。 なお、この百年誌によれば、同窓会長と 百周年記念事業実行委員長の名前は、あ の提灯に書かれていた酒屋さんの名前と  写真−15:祇王小学校       同じだった。 【14】祇王井川は川幅が狭いまま、さらに家並に沿って流れていた。家並は 道路にも沿っている。この家並沿いの道路は、古くから往来があった雰囲気を 漂わせていた。さらに進むと、家棟川(やのむねがわ)という少し広い川に合 流した。このあたりまで来ると人家は途絶え、のどかな田園風景が広がってい る。田圃の中の若い桜並木の道路を歩いて行くと、やがて堤防の高い新家棟川 に合流する。この新家棟川は一路琵琶湖へと向かうが、途中で西祇王井川と合 流する。  この合流地点から琵琶湖方面を見ると、ゆったりと横たわっている比叡山や 比良山が目に入る。比叡山はこのあたりの西に位置しており、お彼岸の頃には 比叡山の上に太陽が沈む。      日の入りの比叡に寄りて春近し   てる爺  写真−16:道路沿いの東祇王井川  VSPACE=  写真−17:家棟川との合流地点  VSPACE=  写真−16:道路沿いの東祇王井川 写真−17:家棟川との合流地点   写真−18:新家棟川との合流地点  VSPACE=  写真−19:遠望の比叡山 VSPACE=  写真−18:新家棟川との合流地点     写真−19:遠望の比叡山  【15】これまで、生和神社裏で西祇王井川と分岐した東祇王井川に沿って歩 いてみた。次に西祇王井川に沿って歩いてみた。東祇王井川が家並に沿って流 れていたのに対し、西祇王井川はほとんどが田圃の中を流れている。生和神社 裏で分岐して中の池川とも呼ばれる西祇王井川は、やがて童子川と合流する。 童子川の命名の由来は、祇王井川の開削作業が難航していたとき、童子が現れ て川の経路を示したという伝説によるらしい。童子川(西祇王井川)はやがて 新家棟川(東祇王井川)と合流し、琵琶湖へ流れ出る。  写真−20:童子川との合流地点  VSPACE= 写真−21:童子川橋 VSPACE=  写真−20:童子川との合流地点     写真−21:童子川橋  写真−22:両井川合流点から見た三上山  VSPACE=  写真−23:琵琶湖に向かう新家棟川  VSPACE=  写真−22:両井川合流点から見た三上山  写真−23:琵琶湖に向かう新家棟川 【16】以上は祇王井川の流れを追ってみたものである。以下、川沿いから離 れて、祇王井川に関わる史蹟を少し訪ねてみることにする。  童子川に近い中北という地区に妓王邸跡妓王寺がある。妓王邸跡には、妓 王と祇王井川の由来を記した大きな石碑が建っている。そこから300メート ル位離れた位置に、妓王寺という尼寺がある。拝観には予約が必要みたいであ る。  写真−24:妓王邸跡  VSPACE=  写真−25:妓王寺 VSPACE=  写真−24:妓王邸跡          写真−25:妓王寺 【17】中北に隣接して北という地区がある。江戸時代の国文学者・北村季吟 (1624−1704)はここで生まれた。源氏物語や徒然草などの古典の注 釈を手がけただけでなく、歌人としても名を上げ、松尾芭蕉などを育てた人で ある。この地区の北自治会館前には北村季吟の句碑がある。      祇王井にとけてや民もやすごおり この句意は「祇王のおかげで野洲の人たちは安らかに過ごすことができる」と いうような意味であろう。  写真−26:北村季吟記念碑  VSPACE= 【18】 この句碑前で今年(2004 年)6月12日、季吟300回忌の法要 が営まれた。法要の後、俳句会が行われ た。これは季吟顕彰事業として毎年俳句 を募集しているもので、今年は第49回 目である。北地区は俳句をたしなむ人が 多く、俳句同好会の活動が活発である。 ちなみに、私は俳句の初歩を習っている が、先生はこの北地区の人である。  写真−26:北村季吟記念碑 【19】「..おごれる人も久しからず...」と平家物語に記されているよ うに、清盛で全盛期を迎えた平家の繁栄は短いものだった。平家は壇ノ浦で滅 亡した、と考えている人が多いかも知れないが、平家の系譜としては清盛の三 男宗盛とその子清宗の死をもって終わった、とみるのが正しいようである。  宗盛、清宗親子は源義経によって打ち首になった(1185年)が、その 平家終焉の地 は現在の野洲町の一角にある。  写真−27:平家終焉の地  VSPACE=  「平宗盛卿終焉之地」の碑が人通りの ない丘すそに静かに建っている。季吟法 要の後に訪れたとき、この碑の周りはき れいに掃除され、花が添えられていた。 京都から足繁く掃除にみえる人がおられ るそうである。  祇王井の由来が史実に基づくものかど うかは議論が分かれているようであるが、 事実であるとすれば、野洲は祇王井を作  写真−27:平家終焉の地       った清盛に感謝している人々の里であり、                  平家最後の宗盛親子の魂が安らかに眠れ                  る場所であろう。 【20】ここまで読んでいただいた方は、「祇王」と「妓王」の用語が混在し ていることに気づかれたかも知れない。「義王」の語も登場した。私が確認し た範囲では次のように使い分けられていた。   祇王⇒平家物語、祇王寺(京都)、祇王井川(写真−2他野洲町が設置      している案内表示)、祇王村、祇王小学校、   妓王⇒妓王寺(野洲)、妓王邸跡、史蹟妓王井川の碑(写真−3)、      地酒・妓王井、祇王小学校ホームページの壁紙   義王⇒義王村(祇王村に改称される前)  何故なのかを野洲町の歴史民俗資料館(銅鐸博物館)で尋ねたところ、「各 種文献で混在しており、明確な基準はない模様。妓は芸子の意に、祇は出家の 意に使われているようである」とのことだった。美人で舞の名手だったという 女性の生涯を偲ぶためには、「祇王」よりも「妓王」でなければならない、と 私は感じている次第である。      【21】今回の探訪で予想外に得られた私の発見を記しておきたい。 祇王井川は、生和神社裏で分岐している西祇王井川を除き、ほぼ全域にわたっ て道路が脇にあり、道路を歩きながら観察することができた。道路は古い家並 に沿っており、昔からの往来が盛んであったことが想像できた。観察が終わり 近くになったとき、ふとある考えが頭をよぎった。それは、祇王井川に沿った 道路は昔からの街道で、もしかしたら朝鮮人街道と呼ばれているものではない か、ということだった。  朝鮮人街道とは、江戸時代に朝鮮から遣わされた使節団(通信使)が江戸へ 向かう時に通った道のことである。図書館で調べてみたところ、私は朝鮮人街 道を辿っていたことが分かった。通信使は大阪から京都に上り、京都から東海 道を通って滋賀県の草津から中山道に入った。草津から中山道を通ってきた一 行は野洲で中山道から分れ、八幡、安土、彦根を経て鳥居本で再び中山道に合 流している。この中山道から外れた部分が朝鮮人街道と呼ばれているのである。  私が祇王井川沿いに歩いたうち、大半は朝鮮人街道だった。野洲小学校裏の 中山道との分岐点(写真−5のあたり)から新家棟川との合流地点(写真− 18)あたりまでが朝鮮人街道の一部だったのである。 【22】野洲に住んで20年余りになるが、これまで身近にある史蹟を訪ねる 時間と心の余裕がもてなかった。今回、ようやく気がかりだった祇王井川の全 体像をつかみ、併せて朝鮮人街道の位置についても確認することができた。  最後に、参照した文献のうち、実際の散策に有益だった2点を挙げて謝意を 表したい。  ・平家物語と祇王 −祇王井開削・祇王没後八百年−     編集発行:野洲町立歴史民族資料館  1990年10月26日発行   ・「朝鮮人街道」をゆく −彦根東高校新聞部による消えた道探し−     門脇正人・著 サンライズ印刷出版部 1995年12月10日初版 (なお、野洲町は今年(2004年)10月1日から野洲市になる。   琵琶湖寄りの中主町との合併によるもので、これにより山と川と平野と湖、   そして史跡に溢れた新市が誕生する。)                 (散策:2004年5月下旬〜6月上旬)                 (脱稿:2004年6月25日)        この稿のトップへ  報告書メニューへ  トップページへ